土佐日記です

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     竹中労による美空ひばりについての本を読み、ひばりの歌の本筋は中山晋平野口雨情にあ
    り、さらに晋平雨情の行き着く先は紀貫之の土佐日記。との説に心惹かれて日記を読み始め
    ました。さらにさらに、ひばりとマヘリア・ジャクソン&エルビス・プレスリーの曲をパソ
    コンに取り込み、シャッフルして聴き始めましたのであります。
     はてさて、その行き着く先は・・・・・・・・・・・・何処に?

     ひばりは「歌声は永遠に」「オリジナル・ベスト50」の全65曲、マヘリアは「NEWPO
    RT 1958」「Amazing Grace」の全35曲、そして「ELVIS 2ND TO NONE」「ELVIS
    GOSPEL」はエルビスで全44曲、の締めて144曲。これをバラバラに聴きながらしばらく
    過ごすことになるわけです。私は以前から音楽のシャワー効果っちゅうものを唱えておりま
    して。それは何かというと、聴き続けることはシャワーを浴びていることと同じでだんだん
    薬効(ってほどじゃないけど)が皮膚を浸透してからだに心に沁み渡るというもの。証明
    する手だてはないけど、ゼッタイにあると信じているわけ。

     ひばりは竹中氏からプレゼントされたマヘリアのレコードに大きな共感を覚えた事実、ま
    たエルビスは私自身がひばりとの多くの共通点を感じる歌手だからゆえ。この三者いずれも
    出自は庶民、曲を作らず歌い手に徹底し(ひばりは数曲の自作曲があるけど)、専門家の評
    価は決して高いとはいえず(芸術性は極めて低評価)、しかし大衆に愛されたことはことは
    誰でも知ってるもんね。ちなみにマヘリアとエルビスはいずれもゴスペルがふるさとでして
    これも奇妙な因縁と言えなくもないか。

     しかしなぜにそこまで私はひばりに肩入れするのか。

     それは畢竟わたしのもの作りの指針になりそうだからということ。デザインの世界を志し
    てはや40年。今までも今でも考える時の核心がないのです。そりゃ先輩諸氏の作品はたく
    さん見て来たので知識は増えたし、そこそこ年相応の教養も多少なり身に付いているとは
    思うけど、それらを駆使しても「これでいいのダ!」という確信はない。特に、日本人であ
    るからには日本的なるものを内包してないとならぬ、というかそうであるべきだという考え
    が頭から去ることはないのです。

     今の地面が過去の遺跡の上に積み重なって出来ていると同じように、今の私、あるいは
    私が考えるデザイン(私の場合それはファニチャー、いわゆる家具なんだけど)は過去の
    文化の上に成り立っているものであるはず。そこで問題となるのが、その過去の文化って
    一体なに?ってことでさ。歌麿とか光琳とかいってもなんかかなりピンと来ない。民芸も
    同様で、いくら勉強してもさっぱり掴めませんでした。私の頭が悪いのかもしれないけど
    あまりにも実感できないので「ほんとにみんなわかってるのかいな?」とついつい思って
    しまいます。

     今、ゴミバコを考え試作してるんだけどかたちに迷い立ちすくんでいて。家庭用45リッ
    トルのビニール袋がそのまま使える大きさ。厚さ9ミリのベニヤで作るんだけど、4枚の板
    を組み合わせて四角い箱を作り、蓋と底板を取付けて箱になる。おおよその構造や作り方は
    誰が考えても同じようなものになるんだけど、4枚の板の形がね。四角だけじゃ真面目す
    ぎていやだし、かといって丸くしたり曲線を使うってのもどうなの。曲線ってのは感じは
    柔らかくなっていいんだけど、線の根拠がないわけですよ。どうにでもなりますからね、
    曲線は。

     こうでなければならないという部分はいいけど、どうでもいいという部分はむずかしい。
    伊丹十三が言ってたけど「女、公衆電話をかける」といったなんでもないシーンがむずか
    しいと。その気持ちわかるな〜。家具だって繋ぎ合わせるところとか目的のある部分は
    合理的に考えればいいんだけど、そうじゃない部分がね。合理性が使えないところはどう
    すればいいんかい、と悩むんですよ。結局、大した根拠のないままに、な〜んとなくとな
    ってしまうわけです。

     そんな時に美空ひばりのエッセンスをひとしずく。あーら不思議、もやがかかって見え
    にくかったものが、みるみるうちに天下晴れ。くっきりとあるべきかたちが見えてきまし
    た。直線だって曲線だって、合理性という無粋な考えなんか使わないでもイケまっせ。ほら
    この通りってなもんで。粋でいなせとか情といった英訳不可能なことばを使いましょう盛り
    込みましょう。なんて、そんなことにならないかね〜。

     土佐日記ざんす。

     昔むかしの庶民の生活がよみがえります。なんか少しだけひばりに近づけた気がする。
    気のせいかな? 錯覚かな? はたまた・・・・どうなん?? 中でもこの一文がお気に
    入りの店主。
     『さて、十日(とをか)あまりなれば、月おもしろし。船に乗りはじめし日より、船には
    紅濃(くれないこ)くよき衣着(きぬぎ)ず。それは海の神に怖じてといひて、なにの葦陰
    (あしかげ)にことづけて、老海鼠(ほや)のつまの貽貝鮨(いずし)、鮨蚫(すしあは
    び)をぞ、心にもあらぬ脛(はぎ)にあげて見せける』
     これが原文で、

     「さて今夜は十日過ぎなので、月が美しい。船に乗り始めた日から、船中では紅色の濃い
    派手な着物は着ません。それというのも、海の神を怖れてのことだといいながら、(そのく
    せ)何の悪いことがあろうかと、少しばかりの葦の陰をよいことにして、ホヤのつれ合いの
    イガイやアワビのすしを、人の見るのも気づかずに、着物の脛まで上げて見せることでし
    た」これが訳文。

     今読んでるところは、船の旅日記ですからね。このホヤとかイガイとかアワビは言わずと
    しれた女性器の別称です。女陰(ほと)ともいうし、九州ではボボとも呼ばれる。そういえ
    ば昔ボボ・ブラジルという頭突きで有名なプロレスラーがいたけど、その名前を心配する
    人もいた。あるいは、ソンコ・マージュっていうミュージシャンの師匠がマンコ・マージュ
    というウソのような名前で、来日したらどうするの? とこれも密かに話題になりました。

     相変わらず品下がりっぱなしの店主ですが、言いたいのは性に対してかくもおおらかな
    のが昔の日本で、それが改まってしまったのは儒教だかの影響であるとかないとか。だから
    そんなに昔のことではないらしいんだな。話しがだいぶ逸れてしまったけど、要は旧きを
    訪れて新しきを知るみたいな、今の私にとっては差し迫った必要情報であり尽きない興味
    好奇心がそそられる事柄なんざんすゥ〜。

     と、ゴミバコにも呻吟している真っ最中・・・・・・・・・・の、店主でした。


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