行方不明な肩痛

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     突然発生した肩痛、重い腰を持ち上げ歩いて数分の目蒲病院へ行った。工房の

    掃除中に手首をガラス片でグッサリ切り裂いて以来だ。問診、レントゲンの後、

    骨には異常はない、ちょっと様子をみようと、渡された貼り薬?と痛み止め。

    帰って肩に貼り、しばらくすると痛みは霧が晴れるようにどっかに行って、今朝

    はほとんど行方不明。はて、どこへ行ったのかのう??

     

     ともあれ、とりあえずではあるが痛みが消えたことはまことに喜ばしい。

    珈琲を飲みつつモーツァルト交響曲全集19CDを次々と聴いている。むろん、

    ホグウッド&エンシェントだ。一服しつつパソコンで一文を目にする。

     御歳で椅子に取りかかるは真っ当。協力したいです。
    巨匠ウェグナーにして、俺は職人で、デザイナーと呼ぶなと、晩年まで、老若

    男女、家族に試しては試作品の脚を切り詰めたり継ぎ足したりしていましたしね。

    ご紹介の写真の椅子は畳の上に置く仕様で、日本人としてこのタイプにはずっと

    興味を抱いてました。

     

     畏友T野井さんからの励ましのコメント。ウレシイなァ〜。話を聞いてくれる

    にしても相手によりけりでね、見ず知らずの人に通り一遍の励ましじゃなかなか

    ココロには響かないことよくあるじゃん。理解し合ってる方からであれば、

    まるでアタイのココロのヒダヒダに沁み渡るの如くでね。持つべきものは友、

    の言葉がすぅ〜っと浮かび上がるってもんだ。

     

     そもそも椅子にはなんの興味もないアタイ、なんたって家に椅子がないからさ、

    ぜ〜んぶ畳だもんな。日々の生活の中で椅子に座る経験が希少なアタイが椅子を

    デザインするなんざ愚の骨頂、意味がないでしょ。畳に座卓でご飯を食べ、

    おもむろに横になり、たまにゃ柱に足をもたれかける、しかも近時のホット

    カーペットに加え毛布がある、昔こたつ今はコレ、椅子じゃこんな贅沢は

    できない。そりゃ確かに仕事で椅子は使う、一杯飲もうかって時だって椅子は

    必要だ。でもさ、生活の中心にあるのかって聞かれれば、そりゃ違う。生活の

    中心は畳、がアタイのスタイルだ。

     

     とはいえ家具が好きで入ったデザインの世界で、王座に君臨する椅子は

    アルプス高峰のごとく屹立し、常にどっかから見下ろされているような気が

    していたことも事実でね。高峰の中でもひときわ高く輝いているのがハンス・

    ウェグナーであることは同感きわまりなし。技術や知識をひけらかすわけでも

    なく、有名になりたいお金をもうけたいなんて意識も微塵に感じられない、

    真面目に真摯にひたすらコツコツと椅子(他にもあるだろうけど)を作り

    続けた姿勢はまさに孤高の天才と呼びたい。

     

     彼の中で自然に湧き上がってきた椅子への思い、片や畳ばかりの生活で

    椅子なんかなくったって一向に困らないアタイ、そのことが大きな障壁と

    なって、椅子がデザインできなくてほぼ50年経っちまった。憧れるけど、

    好きだけど、アプローチがわからない。まるで着物に憧れるアフリカの

    部族民みたいだ。

     

     生活の中で馴染みがないから、歴史もないし伝統だって理解の外だ。

    写真で見てイイなと思ったって、そりゃ姿かたちだけでさ、本質みたいな

    部分は到底わかるわきゃない。椅子の構造の合理性にしたところで、

    構造の作り方だけを取り出しただけであって、そこに至った文化的な背景

    までは思いは及ばない。っちゅうか、つまりはワカラナイのでありまする。

    そんなココロで椅子を作ろうと思ったって換骨奪胎みたいな似て非なる

    代物しか生まれないことはわかりきったことだ。

     

     世に言う名作椅子にはな〜んの興味もないコチトラ、ましてやそれを

    模作することに意味を見出すことなんかアタイのチン恋頭脳にはムリも

    ムリ、大無理だもん。確かに名作と呼ばれるからにはなんらか突出した

    意義とか魅力はある。いわゆるスタンダードだもんな。映画にしたって

    音楽にしたってそれは共通してる。でもさいくらモーツァルトに魅力を

    感じたってあっちはヨーロッパこっちは日本、音階もちがうしメロディ

    や楽器だって違う、なにからなにまで違うんだからね。明治大正昭和の

    古今の音楽家たちが呻吟したのも西洋と日本の折り合いの付け方なん

    じゃなかったのかしら。

     

     そこで思い出すのが竹中労。彼の説の中に

    「ひばりの歌の本筋は中山晋平野口雨情にあり、さらに晋平雨情の行き

    着く先は紀貫之の土佐日記」がある。

     晋平は中山、雨情は野口だ。彼らが生み出した日本の歌謡は、今じゃ

    誰も見向きもしないような感じだけど、日本人の心の底流として静かに

    受け継がれているんじゃなかろうか。決してアナクロニズムとは思い

    ませんよアタイは。そのことは以前ブログでも書いたけどさ。話は飛躍

    します。高峰モーツァルトに比肩する日本の音楽が晋平雨情と仮定して、

    ウェグナーに比肩する椅子(出来るかどうかわかんないけど)はどんな

    ものなのかをイメージ出来るヒントとして浮かび上がるのはYMOだ。

     

     YMOといえばテクノポップ、いわゆる電子音楽の草分けだ。今までに

    まったくなかった新しい技術を持ち込んでの楽曲はまさに日本的である

    ことの証左でもある。それまでのギター主流のポップミュージックとは

    まったく異なる手法は後進国としての日本ならではのアプローチである

    とアタイは考えるのよ。話は飛躍する・ツー。アタイが考える椅子に

    とってテクノに相当する部分は、座面と背もたれが幾段階かに変化する

    ということにある。椅子は単機能で、一つの椅子は一つの用途と限定

    されているのが多々であります。子供から大人まで使える椅子はたしか

    北欧で作られていたけど、それは心地よいものとはいえないとT本さん

    が言ってた。

     

     座面の高さと角度が変わり、背もたれの高さや角度も変わる、さらに

    肘掛けだって変わります。こんな奇妙とも言える椅子を考えるのは、

    名作椅子の類いにことさら興味を持つ事はなく、椅子に馴染みの薄い

    アタイぐらいしかいないんじゃないか? これならアタイだって

    充分すぎるほどの興味は湧く。テクノポップと自在に座り心地が変化

    する椅子、アタイにとっちゃとても似ているイメージなんだわさ。

    きっと、これならウェグナーだって「どれどれ、見てみようか」

    「ふ〜ん、こうなってるのか」「おもしろいね」とかなんとか言って

    くれそうな気がする。別にウェグナーにおもねるわけじゃないけどさ。

     

     相変わらず長い。肩痛からの病み上がり、短期リハビリだからさ、

    くどいけど時間はあるから、ついついのブログなんだ。さらに畏友

    からのコメントがあったもんで、これからはT野井さんとのしばしの

    往復書簡みたいな感じになることご了承くだされたし。

     座面。俗に座位基準点はこのように(●)高低変化します。単に高低の

    変化だけだからこれはさほどむずかしい問題ではない。

     背もたれ。基準となる●は高さと左右がけっこう変化します。左右の

    振れ巾をクリアしようとすれば巾の広い板を使うか細い材を格子状に

    並べるのがよかろうと愚考しているのですが・・・・・・・。

     さらに肘掛け。角度なしの水平が基本。しかし高さは変えなければ

    なりませぬ。座面前方のこの位置で固定し、後方は背もたれ部分あたりで、

    二カ所で固定すれば肘掛けの固定は安定すると愚考。

     座面、背もたれ、肘掛けの三カ所が自在に変化できる椅子、それに

    対応出来ると思われる椅子がコレ。開発機密と思ったけど、こんなもんを

    真似しようなんて人いないだろと高を括って公開。前回の記事で、

     ホフマンの椅子を紹介したけど、上の松村勝男さんの椅子との共通点は

    多い。主構造は、いわゆる縦格子だ。どっちがミメーシスしたってこと

    じゃない。シンプルな構造は普遍的なもんだ。F.R.ライトだって多用してた。

     

     この構造なら座面が上下する軸は格子の隙き間でOK。問題は背もたれ。

    上下左右幅広く点在する背もたれの軸を格子の棒部分でカバーすることは

    できませぬ。棒の中心や端っこや格子の間の空間部分に位置する事もある。

    それらをクリアしようとすると格子の間隔がバラバラになってしまうんだ。

     

     むろん座面の高さの変化=椅子の機能やかたちのバランスの変化=本椅子

    としてのバランスもある。さらに、座板、背もたれ、肘掛けは格子状の

    構造体にボルトオンされるから心配ないとしても、両側の格子構造体を

    つなぎとめる貫(ぬき)が不可欠。座板、背もたれ、肘掛けを取り去っても

    自立できるようにしなければならない。

     

     T野井さんご指摘の「畳に置く仕様」とは、たしか「畳ずり」と称される

    と記憶しています。以前、ウェグナーチェアを愛用されている方のテーブル

    をデザインして納めたときに、床に点々と椅子の先端の脚端痕が残って

    いることを目にしました。ウェグナーの椅子といえども床材はかなりの硬さ

    が要求されるようです。また、痕が残ること覚悟の上で使用するべきだと

    思います。昨今の硬質塩ビの床材ならば大丈夫なのかもしませんが。対応策

    としてはただ一つ、床に接する脚端部の面積を大きくするしかありません。

    つまりは、床に接するのは棒ではなく板になります。世界の中で柔らかい

    床材の最たるものは畳でしょうから、座椅子のようにするのが妥当では

    ないでしょうか。そのことを充分考えたからこそ松村勝男さんはあのような

    畳ずりにしたと私は考えます。

     

     ただし、私にとって松村さんの椅子に物足りない感じを抱くのも事実です。

    その原因は、近年の私がインドに大きな興味を抱いているからです。特に

    服、豊かな装飾性と色彩が私を惹き付けてやみません。そんな私の考えを

    見事に表現しているものとして

     レバノンのBOKJAがあります。当地の民族衣装をパッチワークして

    作られた一連の椅子や家具たちです。過剰ともいえる装飾性、このような

    椅子を置く部屋はどのようなものか? そんな考えを吹き飛ばしてしまう

    ほどの魅力を感じてしまいます。ウ〜む、困ったもんだ。もちろん、

    こんな感じをそのまま私が考える椅子に取り込む事はできません。

    あくまでもイメージです。これを理解して解釈し直さなければならない

    ことはむろんのことです。

     

     長過ぎるな〜文章。

     

     ここで考えたのはパッチワーク。前回記事にした井口材木店で、今回の

    椅子に使う材料を聞いたら、いろんな木材が在庫としてあると。ならば

    かたちや構造は決めた上でいろんな木材を使ったらどうかって考えたの。

    さらに厚みも変えて凸凹(といっても多分数ミリの範囲内)変化のある

    ものしたらどうか、と。従来の椅子(や家具)たちの多くは単一の素材

    で作られているでしょ。まとまっているという感じです。でもさ、

    まとまっているということはホントにいいことなのか魅力的なのかって

    いうことを考えてしまったんですわ。

     

     服装にしたって決まっているということが時代に即しているとは

    思えないんだよね。ブランド服と古着を自分なりに自由に組み合わせる

    ことが今なんじゃないかと思うんだ。上から下までブランド服でキメル

    ことはダサイ、私はそう思う。組み合わせこそが着る人の個性ってこと。

    保守的な家具(特に椅子)の世界にもそろそろそんな考えを導入しても

    いいんじゃないのかな? な〜んてね

     

    どうですT野井さん、一緒にやってみますか?・・・な、店主でした。

     


    コメント
    可動部の芯に金属を使うのも一考かと思います。加工は(木ほど)自在にいかない分、強度が担保出来るのでスッキリしたフォルムが描けます。
    • T野井
    • 2017/11/29 9:06 AM
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